教育テレビの詩の授業

概要から説明しよう。今日テレビを見ていると、小学校の授業風
景が写り、「皆さんに書いてもらった詩の中で、みんなに読んでも
らいたい物があります」それは、「授業中に私の方を見て、こっそ
り笑う人がいる」という内容の作文のようだった。それを道徳の時
間にみんなで話し合おうという事らしい。

この光景を見ていて、怒りで頭が真っ白になった。問題はいくつ
かある。一つ目に、小学生の低学年に向かって「詩をかけ」という
課題を出したことだ。「あんなものは詩じゃない」というつもりは
サラサラないが、あえてその世代の人間に「詩をかけ」というカテ
ゴリーを限定して課題を与える愚かさだ。詩だろうが、感想文だろ
うが、お話だろうが、単に「思っている事を書きましょう」という
意味なのだろうが、じゃあ、なぜそう言わない?

二つ目に(おそらく国語の時間に書かせた)詩の内容について道
徳の時間に、話し合うという事態だ。教員はいったい自分がどんな
事をしているのかわかっているのだろうか?狭い意味で定義すれば
詩なんて「心に浮かんだノンフィクションともフィクションともつ
かない、心のつぶやき」だ。それについて全体の場で、しかも道徳
問題として捕らえようとしているのだ。もう一度書くが、教師は自
分がしていることの意味の大きさを全く考えずに、思いつきだけで
授業を進めているように見える。

自分の子供時代の頃を思い出した。書道の時間に「黒ばっかりじ
ゃつまらないから、絵の具を使って1文字づつ色を変えてみるのは
どうだろう。ステキなアイデアだ。」実行したところ、当たり前の
ように作品は教師に破り捨てられ、私は泣きながら絵の具混じりの
硯を洗っていた。あの時、ほんのもう少しだけ理解してくれる人が
いたのなら、今ごろは日本一のカラフル書道家になっていたかも知
れない。しかし、学校で許される自由なんて、案外そのレベルのも
のだ。

「自由に意見を述べてください」と担任は意見を募るが、子供だ
って、そんなにバカではない。つまり、その場所で許される自由の
限界を敏感に感じ取り応答しているのだ。最終的にまとまった意見
は、「こっそり笑うのは急には無くせないが、少しづつ減らす努力
をしよう」ケッ。政治家みたいな答弁だ。できる限り善処します、
というやつだ。この年齢になってまで、自由の持つ限定された意味
に驚きを隠せない。

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