参議院選挙前日なので直接的な政治ネタや投票誘導は一応避けようと思う。
でも、ここ最近のマスコミの報道姿勢(政治ネタかどうかを問わず)で地味に気になっている変化があるので今のうちに書いておきたい。
読者、視聴者、もしくはランダムに選んだ「一般人にアンケートを採る」という手法の設問内容と報道への組み込まれ方が、ここ数年で急激に変化しているようだ。
これは詳しく統計を取ったわけじゃない自分の印象込みの話なので注意。でもたぶん報道傾向を追ってみれば似たような内容になると思う。
古いタイプの感想アンケート
もちろん昔からアンケートというのは報道に組み込まれてたんだけど、それはあくまで「普通の人はこういう印象、感想を持っている」という補足として使われていたはずだ。昔ながらのパターンを一般的な例で書くとこうなる。
例1a、ある人物の不祥事についてどうするべきだと思いますか?→辞任するべき、責任を取らなくてもいい、どっちでもいい等から選ぶ→「世間はこんなに怒ってますよ?」という報道
例2a、ある出来事が起こって欲しいですか?→そうなって欲しい、なって欲しくない、どちらでもいい→「世間は期待(又は悲観)しています」というオチ
これならわかる。問われているのは思いや願い、感想や印象だ。いや、今までのマスメディアの印象操作や信憑性の薄いアンケートを見て「既に許せん」と怒ってる人も多いと思う。でも、一応は程度問題だ。アンケートの取り方の問題だったわけ。
感想じゃなくて結果を聞く
ただ、これが決定的に違う方向へ突っ走ろうとしている。質問の内容が「結果の予想」もしくはズバリ「結果そのもの」になってきている。上の例を書き換えるとこうなる。
例1b、ある人物は不祥事の結果どうなる?→責任を取る、取らない、どちらでもない→「だから責任を取るはずだ」と現実の行動の「理由」として扱われる
例2b、ある出来事が起こる?→起こる、そうならない、どちらでもない→「だからそうなる」と報道全体の「証拠」として扱われる
いろいろと突っ込みたいところが満載だろうけど、まず本当にそんなアンケートがあんの?と思うだろう。実際にある。ボチボチと増えている。いつも流し見している新聞やテレビを注意深く見てほしい。
今までの普通のアンケートっぽく書いてあるから、よほど気をつけてみていないとヘンテコさに気づかない。またそれほど大々的にやってない、数も多くないので、まだまだ目立つポジションでもない。
因果関係のねじれ
これが別に専門家や業界人ではなく一般人(結果を左右できる立場にない人)向けアンケートというのがミソだ。
たとえば国政選挙などで「誰が勝つか?」という一般人向けアンケートは成り立つ。当事者だしね。また国家方針や重要決定に関しても間接的に遠回りして一般人が選択権をにぎるということはある。
でも「年金が破綻するか?」というアンケートで実際に破綻するかどうかが決定するわけじゃない。(もちろんこんなに不安な人がいる、という切り口はアリだが今回は別)まったく理由や原因になってないのだ。
逆に誰かが「不祥事で辞めるべきだ」と国民の大多数が思っているから辞めるべきだ、というのは場合にもよるけど感情論としては正しい。ただ実際に辞めるかどうかを一般人の判定や多数決で決めてるわけじゃないしね、「だから辞める」という証拠には一切ならない。
日本だけではない
「日本のマスコミは腐ってる」とよく言われるし、自分もある面ではそうだと思うんだけど、この件に関しては海外報道でも意外と目にする。
印象的だったのはギリシャの国家破綻に関して「国民にアンケートをとったら破綻するという人が○○%」という流れから「だから破綻する」というオチで記事がしめられていたものを目にした。
え?別に国民投票でもないし、何か拘束力がある話じゃないんだよね?そんな重大なこと(笑)を国民の「予想アンケート」で結論を出しちゃっていいの?
ちなみに、上であげた日本の年金破綻のアンケートとギリシャの件は、ほとんど同じ時期に全く関連のないメディアで目にした。このスタイルが流行ってる、ってこと?
「どこの国のマスコミも腐ってる」のは一面では真理なんだろうけど、そんな単純な話なのかな?いったいどうしてこうなっちゃったんだ?
風呂敷は広いほど良い
善悪は置いといて、これは確かに盛り上がる。緊迫感が出る。一見(本当にパッと見だけだけど)リアリティがありそうに見える。
この「冷静に考えたら全く理由になってないアンケート」を最初に導入した人達には悪意があったんだろうと思う。(あくまで推測だけど)騙してやれ、センセーショナルに盛り上げてやろう、という意識はあったはずだ。というより「さすがにわかるだろう」というツッコミ待ちの姿勢だったのかもしれない。
ただ今現在、得意顔でこの手法を使っているメディアの最前線の人達は本当に「理由になっていない」ことを承知でやってるんだろうか?何かが麻痺しちゃってて善悪どころか命題の真偽もわからなくなっちゃってるんじゃないだろうか?
マスメディアの万能感
印象操作や露骨な結果誘導を自分は好まないし、メディアには全く求めていない。でもどうやら報道の人達は「俺達が愚民どもを導いてやる」と思っているようで、最近はそういう姿勢を全く隠さなくなってきた。
この状態を例えば天気予報を使って、どれくらい無茶か解説しよう。
一般人が知りたいのは明日の天気だ。もしくは気象予報士が出した「明日の天気の予想」だ。確率つきでも一応は可。
これをテレビが「明日は晴れるべきだ」と言いだしたらどうだろう?無茶だ。「お花見の季節だから」という理屈をこねてもダメだ。お前に言われる筋合いはない。
昔のメディアだと「花見の時期に晴れて欲しいか?」というアンケートを採って「だから晴れるべきだ」という根拠の一つに加えたりしていた。
ここで今回のテーマ。今チラホラと見かけるタイプのアンケートは(気象予報士でもなんでもない)一般人に明日は晴れるかどうか聞いて「だから晴れるはずだ」と言っているのと同じだ。理由になってないよ、と突っ込む人はまだ少ない。
このように天気予報で喩えると無茶っぷりがよくわかるけど、他のことだとオカシサがよくわからなくなる。ここが重要だ。
天気は晴れてほしいと思ったから晴れるわけじゃないことは子どもでも知っている。でも「他のことならなんとかなりそう」な気がしちゃうのだ。
実際には天気並に「因果関係がない」事例でも人間同士のことなら「何か影響しそう」な気がしてしまうのだろう。アンケートを採られる側も、自分の意見の重みを0ではないと思い込んでしまう。過大評価ではなく「本来無いはずの効果」をあると錯覚してしまう。
この現象をうまく説明する心理or社会学用語があるのか知らないけど、大元の原因はマスメディア自体が「自分たちが世間を、社会を、時代を引っ張ってきた」という過剰な自信をもっていることに起因すると言える。(これは一面では間違いではない)
勝手な方向に引っ張っちゃうこと自体が自分には迷惑千万なのだけど、メディアに一定の社会的な役割があることも否定はしない。でも、もちろん限界がある。あるはずだった。
勘違いが生み出す神の視点
メディアがアンケートの使い方で無茶をやらかし、虚実(というより因果)の区別がつかなくなった時代。
自分たちが何をどこまで変えられるのかの限界が見えなくなってしまった。メディアにのったことが実現する、少なくとも影響を与えると思い込んでしまった。
そして読者、視聴者も、自分たちの意見が吸い上げられ、メディアのフィルターを通して再供給されると、そのフィードバックの前後関係がわからなくなってしまう。
メディアの「なんでも変えられそう」な万能感の枝葉に乗っかってしまうんだろうなぁ。
情報伝達機能は蘇るか?
で、明日は参院選。(自分には)凄く悪くなる可能性はあっても、一発逆転でよくなる目はない。微妙に好転ぐらいはするかもしれないが。
この状況を作ったのがマスコミだ、とはよく言われる話。善悪で言えば、騙す人がいて、騙される人がいて、マスコミは仲介しただけ、のはずなんだけど。
問題は「仲介になってねーよ」ということ。情報を伝える、多くに広める、ということが本来の目的だったはずなんだけどな。電話、拡声器みたいなもんだ。拡声器が勝手なセリフをしゃべったら困る。
「マスコミ悪い論」は聞き飽きた感もあるけど、逆に「じゃあどうすりゃいいんだ?」という議論がサッパリ無い。
よく「事実だけを報道するメディアがあれば」と言うけど、無理でしょ。採算が取れないから。確かに事実だけ欲しがる層も少数ながらいる。でも現実問題、それで食えてるメディアは無いよね?(超少部数のメディアもあるけど、それはそれで偏ってるし、そもそも公平性は担保できない)
一番の問題は「事実だけを報道」より「脚色&センセーショナル」な方にみんなが飛びつく点だ。ここまではみんなわかる。バカだとは思うけど無理もない。やっていけるだけじゃなく、「事実だけ」の方が儲かる、ってレベルまで意識が逆転しないと状況は動かないだろうね。
自分は一度「メディアは偏ってて当たり前」が一般に深く浸透する必要がある、と思っている。というより「メディアは間違ってて当たり前」かな。
NHKやTBS問題など個別の点で追及は行われている。もちろん大事なことなんだけど、自分が想定しているのはもうちょっと違う。
緊急的な課題
攻めどころはメディアリテラシー(今更な表現だけど)の一般化、大衆化だと思う。
複数の新聞の見出しを比べる余裕、方法。外電との落差を比較する。新聞、テレビ、ネット間の相互比較。できる範囲の裏取り、ソース確認。これを個人単位まで落とし込む。
根本的と言えば根本的、「そっからやんないとダメか?」というレベルの話だけどね。
潰れる潰れると煽っていても、あとしばらくは新聞もテレビも生き残る。ネットが「なんとなく真実に近そう」というのも今後のネット選挙の動き次第で一気にカオスになる。
一般人、有識者、更にメディア内部の人間達も含めて何が正しいのか間違ってるのか、「正しいと間違いの差は何なのか」すらわからなくなっている状況だ。
溺れないうちに全員が泳ぎ方を憶えてほしい。「溺れてるうちに一人で泳げるようになるだろう」と思っていると甘い。集団で溺れたら、泳げる人間の足に無数の泳げない人間がつかまって全員が沈む。
マスコミ向けの対策をやらなくったって、いわゆる
論理学でいう「詭弁」なわけですよね。
しかも文がうまいという。
まあ、日本人も論理学そのものを勉強すれば、
マスコミへの対応やなりすまし、各種詐欺に役立つのでは
ありますが、日本人の論理学への苦手感(実際は平易)
が邪魔しているんでしょうね。
ぜひ、高校数学もしくは高校情報あたりで、半月で
いいから論理学へ取り組んでほしいものです。
逆、裏、対偶がわかんないとか
論理積と論理和の区別がつかないとか
そのレベルの人がゴロゴロいるんだよなぁ
今回マスコミ云々って限ったのは
「騙す言葉のテクニックが半端ない」
「真偽が検証されず書き逃げに近い」
「影響力がやたらでかい」
ってことなんだよね
本当はもちろん
「みんなが騙されない知性を持つのが一番」
それが無理なら、せめて
「騙す気マンマンで前科がある連中をもっと疑ってほしい」
ってことが今回のテーマでした
なるほどー
どうかなー
一方では国民の知る権利を保障するための特権をもってもらわないと
いけないというのは大前提ですが
それを広告配信業者が持っているジレンマ。
民主主義の国ですから世論形成には役立っているから
必要悪ですかね。
ネットも結局求める側の興味にあったものしか見ないの
ですし、確かに覚醒しないひとも多いわけもないわけ
ですし、
テレビだけでなく、新聞もネットもあるし、
バランス的にこのくらいでいいかなと自分は考えた。
そう
だから各メディアのバランスや露出の操作じゃなくて
読む側、利用する側のリテラシーを
(政治信条や立ち位置、思想と関係なく)
単純に強化していくしかないのかな?と
中学生に「わかんない単語は辞書で調べろ」
みたいな感じで(笑)
胡散臭かったり疑わしかったりすれば
基本的な情報だけでも調べてみれば?ってこと
っていうかメディアが騙すから悪いっていうより
みんなが簡単に信用しすぎなんだよね
いちいち調べるのメンドイって人は
騙されても後から文句言うなよ、ってことで
携帯からmixiでみるとコメントが見えないのが残念ですね。
現実的なことをいうと、全員にメディアリテラシーを持ってもらおうってのは酷な要求だとも感じます。能力も得意分野も違うし。
ほかの理由としては、メディアを使う理由の大半が
自分の役に立てるため。「就活に役立つ」
「ビジネスに役立つ」「話題についていく」
「最新情報を把握する」だったら、普通にメディアを
読める以上の読み方は不要だし邪魔。
むしろメディアに乗るほうが正解。
しかし、悲観することもなくて
昔から革命的に世の中が動いた時にも
「そういう覚醒した人」は日本中に2桁~3桁くらい
しかいなかったはずで、 そういう人がちゃんと
「メディアに騙された」というタイプの人をも
導いて行ったはずで、
もしも未来にそういうことが起きる予定だとしても、
そんな人数でも十分なはずで、
だったら別に今のままでいいかなと思ったりしてます。
いまは平常時ですからこんな感じですが、
ほんとの変革期にはごく少ないリーダーが
枠組みを変えるほどのことをせざるをえません。
後から見ると「歴史の必然」くらいな感じ。
メディアも所詮は道具。
こんな考え、どんなもんでしょうか。
後になって一番「騙された」って文句言うのが
そういう層なんだよなぁ(笑)
リテラシーっていうから話が大きくなるのかな?
中学生の辞書の喩え話以下の問題なんだよね
小学生の好き嫌いの食育の問題っていうか
(情報の)
食べ過ぎも食べなすぎもダメ
好き嫌いを無くしましょう
全体のバランスを考えましょう
ってことかな
それくらいの簡単なレベルを
ホントは中等教育ぐらいでやってほしいけど
その教育を担当してる方々のバランスが、、、(笑)
平常時、変革期できっちりわけるのも難しいけど
メキシコ湾とか見てると今は平時と言い切れないのが怖い
もちろん国内問題もね